con l’armonia通信

∮Con l’armonia(コン・ラルモニーア)通信 vol.4

 

 

∮Con l’armonia通信  vol .4♪

  ■パッヘルベルのカノン■

「パッヘルベルのカノン」の曲名を聞いて知らないと思った方でも、きっとメロディを聴けばどこかで聴き覚えがある曲のことと思います。

バロック時代、ドイツの作曲家ヨハン・パッヘルベル,Johann Pachelbel(1653-1706)によって1680年頃に作曲されたカノン形式の作品「パッヘルベルのカノン」は今日広く親しまれています。

原曲は「3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調」という曲名で、カノンとジーグで一つの曲になっています。 ジーグの方は演奏を聴く機会が少ないのですが、カノンの部分が最も有名で、パッヘルベルの作品のなかで一般的に知られている唯一の作品です。

曲名にもあるように、カノンの曲の後にはジーグの曲が演奏され、3本のヴァイオリンと通奏低音(チェンバロの鍵盤楽器やチェロ、コントラバスなどの弦楽器など)で演奏されます。

ピアノで演奏される機会も多い「カノン」を私もCDの一曲目に収録しましたが、選曲した理由には演奏している時にお客様のリクエストが多かったことも理由の一つでした。

販売されているピアノ譜の編曲も沢山あるので、お気に入りの編曲をみつけて演奏したり、原曲以外の様々な楽器編成でも演奏されているので、自分好みの演奏をみつけて聴く醍醐味も味わえる一曲でもあります。

パッヘルベルはバロック時代の宮廷音楽家であり、教会の有名なオルガン奏者でもあった為、オルガンのための作品を沢山作曲しています。

バッハの先輩でもあり、バッハもパッヘルベルの作品を一生懸命勉強したそうです。

更に、バッハ以外にもパッヘルベルの作品は生前から人気があり師事する弟子も多く、ドイツ中部・南部の多くの作曲家のお手本となっていました。

バロック時代の有名な作曲家はビバルディやバッハ、ヘンデルなどが活躍した時代。この時代はピアノの楽器はまだ存在せず、鍵盤楽器はオルガンやチェンバロなどでしたが、今日私たちのピアノの教材に欠かせないバッハもパッヘルベルの影響を受け作曲されていたことを知ると、パッヘルベルの偉大さを感じます。

“カノン”とは「かえるのうた」の輪唱のように、2つ以上の声部が同じ旋律を演奏し、同じ間隔を保ちながら追いかけっこすることで作りだされるハーモニーのこと。

「パッヘルベルのカノン」のメロディーは3つのバイオリンパートが全く同じ旋律を2小節ずつ遅れて他のパートへ受け継ぎ演奏されています。 通奏低音でも2小節単位でひとつの和音進行をずっと繰り返されて、原曲では8つの和音進行の(D レ- Aラ – Bmシ – F#mファ♯ – Gソ – Dレ – Em/Gミ/ソ – Aラ)が28回繰り返されています。

こうした通奏低音が繰り返される作法は、バロック時代より前のルネッサンス時代、器楽曲などによくみられた形式で、通奏低音が同じ和声を繰り返す間、他の旋律パートでは一つの主題旋律を次々に即興的に変形し演奏する技法が流行っていました。

パッヘルベルのカノンはこのルネッサンス期の音楽様式を踏襲されている作品でもあります。

バロック時代の音楽の特徴の一つに、同時に複数の旋律を演奏してハーモニーを作る技法がありましたが、パッヘルベルのカノンも単純な和声と主題旋律が様々なパターンに変化し、3つのパートが重なりあってできた曲。

 3つのパートを聴き取ることは難しいことですが、通奏低音が絶え間なく続き、旋律は最初から最後までカノンの形式で作られた曲。

通奏低音による一定の安心感の中、旋律が重なり合い徐々に広がる曲想は、喜びを表すとともに厳粛な雰囲気を作りたいお祝いのセレモニーのBGMにもふさわしい曲にもなっています。

面白いことにパッヘルベルのカノンの通奏低音による和音進行は、現代のポップス音楽など様々な曲にも多用されたているそうです。

例えば岡本真夜の「TOMORROW」、ZARDの「負けないで」などの始まりもパッヘルベルのカノンの和音進行で作曲されていたり、山下達郎の「クリスマス・イブ」では、曲の途中で「パッヘルベルのカノン」がそのまま演奏されています。

今から約300年以上も前のバロック時代に作曲された曲と現代のポップス音楽が同じ和音進行を用いられて作曲されているなんて考えたこともありませんでした。

パッヘルベルは1706年52歳で亡くなりました。

生涯のおいて特にオルガン曲、オルガン曲以外にも声楽曲の分野でも多くの作品を書いています。オルガン曲の分野では、コラールの様式を確立し、特にJ.S.バッハにも影響を与えました。ドイツの中部と南部の各地を転々としたことからも歌唱的な南部の音楽様式と対位法などを用いた中部の様式を上手く統合させた作風もパッヘルベルの特徴であるそうです。

弦ののびやかな音色と旋律がとても美しい、原曲の「3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調」の演奏です。

 

 

 

∮Con l’armonia(コン・ラルモニーア)通信 vol.3

 

 ∮Con l’armonia通信  vol .3♪

 ■ヴィンチェンツォ・ベッリーニ■

vol.3では、11月のジャン=マルク・ルイサダでの公開講座<http://con-larmonia.com/blog/?p=1477> で気になっていた〝オペラのショパン〟といわれていたイタリアの作曲家、ヴィンチェンツォ・ベッリーニについて書きたいと思います。

☆☆“オペラのショパン”ともいわれた作曲家ベッリーニ☆☆

写真 (7)

ヴィンチェンツォ・ベッリーニ(Vincenzo Bellini, 1801年11月3日 - 1835年9月23日)はイタリアのシチリア島・カターニアに生れました。

病弱の為34歳の若さで亡りましたが、19世紀前期のイタリアオペラにおいて特別の地位を占めた作曲家です。

 ベッリーニの音楽は、イタリア・オペラの理想的な歌唱法のベル・カント(伊: Bel Canto、「美しい歌」) 、最も美しい旋律や優雅な響きを創り出し、イタリア語と旋律がみごとに結びつき音楽がよりドラマ的に表現されています。

息の長い流麗なメロディと情感たっぷりの音楽は聴く人の胸を魅了し、響きの美しさを追求つつ、広い音域、様々な装飾歌唱など表現力を追求するベルカントな歌唱法は現代の名歌手によって今でも受け継がれています。

父親も祖父も音楽家であり、音楽を学ぶ前から感性で作曲を始め神童だったベッリーニ。

若くして世を去りましたが、卒業制作である《アデルソンとサルヴィーニ》のオペラの初演で好評を博し、卒業後25歳にナポリのサン・カルロ劇場のために書いた《ビアンカとジェルナンド》で成功を収め、26歳で《海賊》と相次ぎ成功を収め、若くして一流作曲家の仲間入りを果たしました。34歳の時に《清教徒》をまる一年かけて完成しますが、急病の為この作品を最後に9月23日に短い生涯を閉じました。優美で繊細な旋律のオペラ作品を10曲近く残しています。

1985年から1996年まで発行された5000イタリア・リレ(リラの複数形)紙幣にも肖像が採用されていました。

18歳からナポリの音楽院で学んでいましたが、卒業制作のオペラ《アデルソンとサルヴィーニ》で好評を博した以降、作曲の依頼に繋がったといわれています。

パリでは、ロッシーニ、ケルビーニ、ショパン、リストの音楽家や詩人のハイネなどと知り合います。

ベッリーニの音楽をこよなく愛したショパンは「私が死んだらベッリーニのお墓の傍らに葬って欲しい」と望み、ボーイトは「ベッリーニを愛さない人は音楽を愛していないのだ」と警告し、ワーグナーは「私はベッリーニに特別の偏愛を抱く。なぜなら、彼の音楽は強い真実の感情に溢れ言葉と深く結びついているからだ」と賞賛を惜しまなかったそうです。

名だたる音楽家や芸術家が皆パリに憧れ、パリが最も華やかだった時代に活躍したベッリーニ。

ベッリーニは当時の音楽家、特にピアノの詩人といわれたショパンに大きな影響を与えました。

イタリアとポーランドのロマン派を代表する作曲家、ベッリーニとショパン。

特にノクターンなど、ショパンが作曲した歌うような流麗な旋律は、ベッリーニの旋律と類似点がみられることや、独特のドラマティックな表現法、装飾音符や旋律の動き、演奏のために洗練された技術が必要とされる書法など共通していて、ピアノの楽器を声楽のように歌わせたショパンの作風は、ベッリーニからの影響も大きいそうです。

左がベッリーニ、右がショパンの肖像画ですが、顏も雰囲気も良く似ていると思うのは私だけでしょうか!?

写真 (7)image

ショパンは生涯オペラを一曲も作曲しませんでしたが、オペラを非常に好み、その影響はショパンのピアノ作品によく見られます。

ショパンは自分の作品を理解するためには、ベッリーニのオペラを聴きなさい、とよく生徒たちに言ったそうです。

「カターニアの白鳥」と呼ばれ、後に“オペラのショパン”ともいわれたベッリーニ。

パリ近郊で34歳の短い生涯を閉じましたが、1835年にベッリーニが亡くなるまでショパンとは良き友人でした。

オペラの他にも優美で抒情的な旋律を生かしたサロン歌曲も生涯に30曲ほど作曲しています。

そのうちの一つ『3つの室内アリエッタ』の第三曲:Vaga  luna(優雅な月よ)については、ブログで書いたことがあります。< http://con-larmonia.com/blog/?p=1200

 ナポリの王立音楽院に在学中だった1824年の頃の作品。

夜空に浮かぶ月を眺めつつ恋人を想う、甘く優しい旋律の歌です。

◆ベッリーニのオペラ◆

 代表作のオペラには『夢遊病の女』『清教徒』『ノルマ』などがあり、34歳の短い生涯に旋律美に満ちた数々の傑作を残しました。

  • オペラ『アデルソンとサルヴィーニ』1825年
  • オペラ『ビアンカとフェルナンド』初演1826年ナポリ
  • オペラ『海賊』 初演1827年ミラノ
  • オペラ『異国の女』 初演1829年ミラノ
  • オペラ『ザイーラ』 初演1829年パルマ
  • オペラ『カプレーティとモンテッキ』 初演1830年ヴェネツィア
  • オペラ『夢遊病の女』 初演1831年3月ミラノ
  • オペラ『ノルマ』 初演1831年12月ミラノ
  • オペラ『テンダのベアトリーチェ』 初演1833年ヴェネツィア
  • オペラ『清教徒』 初演1835年1月パリ

 

◆マッシモ・ベッリーニ劇場(Teatro Massimo Bellini)◆

若くしてこの世を去ったカターニア出身の偉大なオペラ作曲家ヴィンチェンツォ・ベッリーニに捧げられた劇場がシチリア島のカターニアにあります。古く老朽化してしまっていた劇場を壊して19世紀後半に建設が始められ立て直されたのが今の劇場です。劇場の完成記念として、1890年の5月31日にベッリーニ代表作のオペラ“ノルマ”が上映されました。

年中、オペラ、バレエ、コンサートなどが公演されていて、世界中の有名オペラ歌手もこの劇場にて演奏され、ミラノのスカラ座やイタリア各地の歌劇場と共に、国内外ともに重要な劇場とされています。
外観はバロック様式、内部はかなり豪華な赤と金を基調とした美しいロココ風のデザインのようです。

マッシモ・ベッリーニ劇場のホームページ<http://www.teatromassimobellini.it/

◆ベッリーニの家・博物館(Museo Belliniano)◆

マッシモ・ベッリーニ劇場の近くに、約16年間過ごしたベッリーニの生家もあります。1930年5月に博物館として一般開放されるようになり、貴重な彼の自筆のオペラの楽譜なども展示されているそうです。

カターニャに人々にとって誇りだったベッリーニ。以前ブログにも書きましたが、代表作のオペラ〝Norma ノルマ〟という名前のパスタ(シチリアの名産ナスとトマトのパスタ)もあります。ベッリーニのオペラの由来から名づけられたパスタがあることを知ったときは、本当に感動しました。<http://con-larmonia.com/blog/?p=1207

多くのピアニストも、ピアノを演奏していない人も好きな方が多いショパン。

数多くのピアノ曲を残したショパンですが、もしベッリーニとショパンが出会わなければ、ショパンの作風にも変化があったのかな・・・・・・

ショパンが敬愛してやまなかったベッリーニ。

ベッリーニがショパンに与えた影響は思った以上に深く偉大でした。

∮Con l’armonia(コン・ラルモニーア)通信 vol.2

 

Con l’armonia(コン・ラルモニーア)通信  vol .2

 

 ∮vol .2 山田耕筰(Kósçak Yamada) ♪ 

■山田耕筰■ 1886 年(明治19年)6月9日-1965年(昭和40年)12月29日

『赤とんぼ』などの童謡でも知られている山田耕筰は、日本の美しい歌曲を沢山残されています。

まさしく今熱い夏の高校野球、甲子園で毎年開会式の入場行進に演奏される『全国中等野球大会行進曲』も山田耕筰が作曲した曲です。

山田耕筰の曲は歌の伴奏で演奏することが多く、「蟹味噌(がねみそ)」 という曲も弾いています。

山田耕筰と北原白秋(作詞)が生んだ数々の名曲の「赤とんぼ」や「この道」「鐘がなります」のような心に沁みる抒情的な曲が多い中、「蟹味噌」は、かなり予想外の曲だったのです。

同じ作曲家とは思えない、新しいタイプの曲だったので「山田耕筰」について調べたく、Con l’armonia通信 vol.2のテーマにしました。

「蟹味噌(がねみそ)」は、白秋の故郷、筑後を題材にした「日本の笛」民謡集の詩により、筑紫潟(九州の有明海)付近でとれるマガ二を生きたまま臼に入れてたたきつぶし、真っ赤な唐辛子をふりかけてあえた蟹味噌(がねみそ)のこと。

私の知っている濃厚なカニ味噌ではなく、かなりピリ辛なイメージです。

 

曲の中の歌詞の二節にも作り方が書いてあります。

「臼で蟹搗(がねつ)き南蠻辛子」(蟹と南蠻辛子(唐辛子)を臼でつく)

 

歌詞の内容は、失恋した女性がヤケ酒していて、地酒のつまみには、この蟹味噌で。

どうせ泣くのなら、失恋で泣くのではなく、唐辛子の辛さで泣きたい。という歌詞に音楽がついています。

出だしの伴奏では、思いっきり臼をたたいている音の表現や、途中では完全に泥酔を表現している伴奏。初めは慣れないに表現にビックリしましたが、今では楽しく演奏しています。

 

山田耕筰が残した作品は、歌曲・童謡・オペラ・交響曲・交響詩・管弦楽曲、朗読の為の音楽・吹奏楽曲・映画音楽・弦楽室内曲・ピアノ曲、合唱曲・軍歌・国民歌、150曲以上の大学・高校・中学・小学校の校歌、JR東海・NEC・丸善書店・化粧品のポーラ・電通など会社の社歌もあります。

やはり、一番活躍された分野は、歌曲や童謡、校歌や社歌も沢山作曲されているように、生涯、歌の作曲に力をいれていました。

校歌や社歌は卒業生や会社の方でないと歌ったり聴く機会がほとんどありませんが、耕筰の作品は私が思っていた以上に様々なところに浸透していた気がしました。 校歌・社歌が耕筰の曲なんて、羨ましいですね!

北原白秋と出会いによって今でも親しまれる童謡の名作を多く残した耕筰ですが、彼の初期の作品は、ドイツ留学で学んだ西洋音楽の壮年期の音楽を基盤にゲーテやハイネ、メリケの詩を取り上げて模索していました。

しかし、日本伝統の文化をとても大切にされた耕筰は、日本には日本語の良さ、伝統があるということで、言葉とメロディーの融合について研究されました。

日本語のアクセントやイントネーションをそのままメロディーに移すということ、日本の伝統音楽のメロディー、音階を巧みに取り入れ、ピアノの伴奏部分芸術性を求め、独自のスタイルを生み出しました。

日本語の抑揚を活かしたメロディーで『言葉の表現するものをそのまま音で表現する』という作曲法です。

赤とんぼ、からたちの花、この道、などの名作が今でも愛され、心に残る音楽の理由がわかった気がします。

彼の作品には、演奏してほしいイメージをはっきりと演奏者に伝えるためにテンポ、リズム、フレーズなど細かい指示を沢山楽譜に書かれてるので、演奏する私達はメッセージとして、演奏するときの手掛かりにもなりそうです。

数々作曲された作品の中、音楽家は歌の曲を演奏する機会がとても多いのですが、管弦楽曲・室内楽曲などは未出版のものが多いことや、自筆譜のほとんどが戦災により焼失してしまったため出版・演奏の機会がほとんどないものが多いことも理由にあります。

山田耕筰は作曲家でもあり、また、ニューヨークのカーネギー・ホールでは自作の管弦楽曲の演奏を、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やレニングラード・フィルハーモニー交響楽団の指揮をするなど、日本人で初めて欧米でも名前を知られ、国際的にも活動した音楽家でもあります。日本交響楽協会、日本楽劇協会を設立し、日本の洋楽普及に大きな貢献をしてくれました。

耕筰の積年の悲願に「日本での本格的なオペラの上演」と「常設オーケストラの設立」という想いがありました。 一人の力ではどうしようもできない中、音楽愛好家の三菱財閥総帥、岩崎小弥太と出会い、彼のスポンサー、援助によってドイツ留学したり、「東京フィルハーモニー会」という小規模ながら常設のオーケストラを作り、帝国劇場で公演を開始しました。 日本のオーケストラ先駆者でもあります。

 

作曲や指揮だけではなく音楽教育にも力を注ぎ、多数の著書を残していて、学校音楽教科書、声楽や作曲を学ぶ者へ書かれた専門書では日本の音楽教育にも影響を与え、私達が学んでいる西洋音楽の世界を開花させ、土台を作ってくれたとても重要な人です。

私達が今日学んでいる西洋音楽のパイプが全くなかった時代、ベルリンで学んだ西洋音楽を日本に伝えること、普及に情熱をもち続けてくれた人。

今日私達が西洋音楽を学べているパイオニアをしてくださったことに感謝の気持ちでいっぱいです。

最後に、「山田耕筰の生涯:年表」と、作品の中で「歌曲・童謡・オペラ」と「ピアノ曲」の紹介をさせていただきます。

 

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◆山田耕筰の生涯:年表◆

 

1886年 東京文京区で、医師・キリスト教伝道者の父の下に生まれるが、10歳の時に父を亡くす。

1901年 13歳の時、姉のいる岡山の行き、姉の夫エドワード・ガントレットに西洋音楽の手ほどきをうける。関西では関西学院中等部に転校。

1908年 東京芸術大学・声楽科を卒業。

1910年 3年間、三菱財閥の総師、岩崎小弥太の援助を受けて、ドイツ・ベルリン音楽学校の作曲科に留学した。

1912年 ベルリンにて日本人初の交響曲『かちどきと平和』を作曲した。

1914年 ベルリン帰国後、岩崎が1910年に組織した「東京フィルハーモニー会」の管弦楽部首席指揮者を任される

1917年 渡米し、カーネギーホールで自作を中心にした演奏会を開く

1920年 日本楽劇協会設立。 帝国劇場にてリヒャルト・ワーグナーのオペラ「タンホイザー」の一部を日本初演。

1922年 日本語による日本の歌を生み出そうと北原白秋と雑誌『詩と音楽』を創刊。

1924年 「日露交歓交響管弦楽演奏会」

1925年 日本交響楽協会(現在のNHK交響楽団の前身)を設立。

1926年 40歳の頃、湘南の茅ヶ崎で過ごす。   「赤とんぼ」などの童謡名曲が数々生まれる。

1927年 日本初のトーキー映画『黎明』(築地小劇場制作)の音楽を担当。

1930年 耕作から耕筰へと改名。

1931年 渡仏。

1936年 レジオンドヌール勲章受章。

1937年 相愛大学教授に就任。

1940年 演奏家協会の発足、会長に就任する。オペラ「黒船」を初演。

1941年 「日本音楽文化協会」発足。

1948年 脳溢血で倒れ、体が不自由になる。

1950年 日本指揮者協会会長に就任。    第1回放送文化賞受賞。

1955年 映画 「ここに泉あり」(監督:今井正)に本人役で出演している。

1956年 文化勲章受章。

1965年 成城の自宅にて心筋梗塞により死去。(79歳)

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【歌曲】

・野薔薇(作詞:三木露風)

・唄(作詞:三木露風)

・歌曲集「AIYANの歌」(作詞:北原白秋)- 「NOSKAI」「かきつばた」「AIYANの歌」「曼珠沙華」「気まぐれ」の全5曲からなる。

・からたちの花(作詞:北原白秋)

・蟹味噌(作詞:北原白秋)

・この道(作詞:北原白秋)

・かやの木山の(作詞:北原白秋)

・六騎(作詞:北原白秋)・鐘が鳴ります(作詞:北原白秋)

・松島音頭(作詞:北原白秋)

・中国地方の子守謡(編曲)

・ロシア人形の歌(全5曲、作詞:北原白秋)

・愛する人に(An die Geliebte、作詞:エドゥアルト・メーリケ)

・漁師の娘(Das Fischermädchen、作詞:テオドール・フォンターネ)

・紫(作詞:深尾須磨子)

【童謡】

・赤とんぼ(作詞:三木露風)

・兎のダンス(作詞:野口雨情)

・お山の大将(作詞:西條八十)

・七夕作詞(作詞:川路柳虹)

・砂山(作詞:北原白秋)

・かえろかえろと(作詞:北原白秋)

・酢模の咲くころ(作詞:北原白秋)

・ペチカ(作詞:北原白秋)

・待ちぼうけ(作詞:北原白秋)

・あわて床屋(作詞:北原白秋)

【オペラ】

・あやめ

・黒船・堕ちたる天女

・香妃(未完)

 

【ピアノの曲】 

・『プチ・ポエム集』(全12曲)

・組曲『子供とおったん』

・『哀詩-「荒城の月」を主題とする変奏曲』

・『源氏楽帖』(全7曲)

・ピアノのための『からたちの花』

・『スクリアビンに捧ぐる曲』 – 『夜の詩曲 (POEME NOCTURNE PASSIONE)』  『忘れ難きモスコーの夜』の全2曲。    1917年ドイツ帰りのモスクワ滞在時に聴いたスクリャービンのピアノ曲に感銘を受けて作曲された。

・ピアノ五重奏曲『婚姻の響』

・三重奏曲『まきば 朝昼晩』(フルート、ヴァイオリン、ピアノ)

・「この道」を主題とせる変奏曲(フルート、ピアノ)

 

 

 

∮Con l’armonia(コン・ラルモニーア)通信 vol.1 

 

ブログを始めて3年少しが経ちましたが、音楽に関係する記事〝Con l’armonia(コン・ラルモニーア)通信〟を定期的に更新していきたいと思っています。

ピアノ、お仕事で何年も音楽に接しているのにもかかわらず、きちんと知らないことが多すぎる私。

音楽好きな方とお話する機会には、かなり専門的なことを質問されたりすると、自分の未熟さに恥ずかしくなることが良くあります。

 

私が日々音楽をしていて気になったこと、知りたいこと、書きたいこと、そして読んで下さる皆様にも音楽の楽しさなどが伝えられるような通信になればと思っています。

 

Con l’armonia(コン・ラルモニーア)通信  vol .1 

 ∮vol .1 「ロッシーニ」♪

 

先日いただいばかりの贅沢で大好きな組み合わせ、〝牛フィレ×フォアグラ ロッシーニ〟のお料理。

写真

〝ロッシーニ〟や〝ロッシーニ風〟などのお料理名をよく聞きますが、イタリアの作曲家「ロッシーニ」が由来になっています。

ロッシーニ(Gioachino Antonio Rossini:1792-1868)は、イタリアのアドレア海に面したペーザロで生まれた作曲家ですが、美食家としても知られています。

ロッシーニと言えば、オペラ作曲家というイメージが強く、生涯に39のオペラを作曲しています。

有名なオペラに「セビリアの理髪師」や「チェネントラ(シンデレラ)」「ウィリアム・テル」などがありますが、10代後半からの約20年間、37歳の時に最後のオペラ「ウィリアム・テル」を作曲した後にはオペラ曲を作曲しないでサロン風の歌曲やピアノ曲、宗教作品を中心に作曲を行っていました。

多くの作曲家は、習作時代にピアノ曲や室内楽を書いて評価され、その後に交響曲やオペラ、オラトリオなどの大規模な作品を手がけていましたが、ロッシーニは反対で若くしてオペラ作曲家として活躍した後、晩年は主に歌曲やピアノ曲などの器楽曲を手がけています。特に人生の最後には、ピアノ曲に力を入れ、数々の作品を残していました。

今までロッシーニのピアノ曲を聞く機会も、演奏する機会もほとんどなかったので、今回沢山のピアノ曲を残していたことを知って驚きました。

 

ロッシーニは、実は37歳で「ウィリアム・テル」のオペラの後には晩年まで作曲活動を引退してしまうほどの食べることが大好きな作曲家。 美食家、料理家としても知られ、オペラで作曲家として成功を収めた後には、グルメ三昧の後半生を送りました。

食べることにかなりの情熱を傾け、牛フィレ肉やフォアグラ、トリュフなどの贅沢な食材ばかりが好みでもあり、これらを使った創作料理を考案に力をいれていました。

一般的に「ロッシーニ風」というと、フォアグラやトリュフを使った料理を言うそうです。

イタリアのボローニャではトリュフを掘る豚の飼育に没頭したり、パリでは「グルメのための天国」という会員制レストランもオープンしたそうです。

そこで、晩年1855年にパリに移住したロッシーニは、毎週美食の晩餐会ともいえるプライベートサロンコンサートを催し、自宅で著名人を招いて新曲発表もしていました。

当初、土曜日に行われていたため「土曜の夜会」というタイトルで、ロッシーニは、ここで演奏する為の曲として声楽曲や、中でもピアノ曲を多く作曲されたそうです。 とは言っても、このコンサートは、ロッシーニが周到に企画・選曲した本格的な演奏会で、器楽曲からオペラアリア、アンサンブルまで、ここでは当時有名な歌い手さんや、リスト、モシュレス、タールベルク、ルビンシュテインなどの一流ピアノニストが演奏をし、ゲストにはヴェルディやグノー、サン=サーンスなど作曲家達も興味深々に聴きにきていました。

ここでも、あまりにも料理が好きだった為、料理の名前や食材を題名にした曲を沢山作曲されています。

錚々たる作曲家や演奏家の前で新曲を披露するので、ロッシーニは新しい作曲技法と斬新さを求めて作曲したため、後の作曲家やピアノの曲において、とても貢献された作曲家でもありました。

 

題名をみただけでもかなりユニークな曲、

≪四つのデザートと四つの前菜≫全8曲をご紹介します。

【四つのデザート】

1.干し無花果

2.アーモンド

3.干しぶどう

4.はしばしの実

【四つの前菜】

5.ラディシュ

6.アンチョビ

7.小きゅうり

8.バター

 

他にも、「やれやれ!小さなえんどう豆よ」、「ロマンティックな挽肉」など、気になるタイトルです。

最後に、ロッシーニと呼ばれているカクテルをご紹介します^^

 

【ロッシーニのカクテル】

苺のフレッシュジュースとイタリアの発泡ワイン、スプマンテに混ぜたカクテル。

スプマンテを使うのが、”ロッシーニ”の本式な作り方のようです。

ロッシ二の曲を聴きながら、いただいてみたいカクテルです♪♪♪

 

 

 

 

改めまして・・・

 

 

こんにちは!

Con l’armonia (コン・ラルモニーア)の高橋牧子です。

 

2月にホームページのリニューアルをしてから、まだこれといって新しい活動ができていませんが、皆様からCon l’armonia (コン・ラルモニーア)についてのご意見やご感想などをいただき、ありがとうございました。

 

 

まず名前、覚えにくいですね~!

良く、×%*△○×××・・・ と曖昧に言った後、名前なんだっけ???

 

と言われますが、これから皆様に是非とも徐々に、コン・ラルモニーアの名前を覚えていただけたら嬉しく思います(^_-)-☆

 

 

もう一つ、ユニット組んだの? という質問も良くありました。

私にとって思いもよらない質問だったのですが、ユニットを作ったわけではなく、個人での活動です。

 

ホームページの中の『コン・ラルモニーアへの想い』(http://con-larmonia.com/about/

にもあるように、ピアノ伴奏、ピアノ生演奏、ピアノレッスン、どの分野も私にとって欠かすことのできないこと。

 

これからピアノの活動していくうえで自分の氏名とは別に、自分が行っていくピアノの世界観を作りたい(少し大袈裟な言い方ですが)という想いからも、コン・ラルモニーアとしての新たなスタートとさせていただきました。

 

これからブログでも、定期的に音楽の内容を主にした、『コン・ラルモニーア通信』を更新していきたいとも思っています。

 

これからもどうぞ宜しくお願い致します。

∮Con l’armonia  高橋牧子